からだと心の平和バトン 2日目

a0196877_155461.jpg

「からだと心の平和のバトン」 2日目:

私がセラピストに導かれたのは、私が子供の頃の母は、ほとんど寝たきりでした。 それで祖母に育ててもらったのですが、「お母さんは体が弱くて病気なのですよ」と聞かされていて、「あ~、そうなんだ。」と子供心に思っていたのでしたが。。。

実は、若い頃の母は、自律神経失調症を患っていたのでした。(これは大人になって知りました。)
父は、外国船航路の船長という職柄、家にはいない家庭環境でした。 父は、年1回の2ケ月の休暇の時だけ家族と一緒に過ごせたのです。 その他に多分、1、2日だけ、日本に船が寄港した際に家族の顔を見に、当時は夜行列車に乗って帰って来てくれていました。 なので我が家は、母子家庭状態で、それが母には精神的にとてもきつかったのでしょうね。
 
父の提案で、私が小学生2年生の時に、環境を変えた方がいいのでは?ということで、母の生まれ故郷の鹿児島へ戻ることに。 それまで私は、福岡で生まれ育っていたのでした。
 
そしたらナント、私の記憶ではそれまではずっと寝たきりだった母が、水を得た魚のように、日に日に元気になり、今では79歳、元気にしています。 故郷に戻ったことで、兄弟、姉妹、友人たちが回りにいるという心の安心が大きかったのでしょう。

もう一人で頑張らなくてもいいのだという、その環境が母を別人に変えてくれました。 ママさんバレー、ママさんバトミントン、ママさん卓球、ママさんコーラスなどなど、もう忘れてしまいましたが、市が主催するのママさん何とかというサークルに次から次へと通っていました。

人間にとって環境って、とっても大切なんだな~と母を見ていて知らされたのでした。 住む場所、回りの人とのかかわり合いが人の人生をこんなにも変えるんだ~とびっくりしたのを覚えています。

そして私の父はの夢は、54歳で早期退職をして、母と一緒に過ごせなかった時間を取り戻せるように、二人で世界一周をすること!! だったのでしたが、53歳の時に突然、脳梗塞で倒れてしまいました。 不幸中の幸いで、休暇中に倒れたので命拾いをしたのでした。 これが、もしも航海中だったとしたら、父は船上で帰らぬ人となっていたことでしょう。 ということで、父の夢が叶うことなく、終わっていまいました。

この時、左半身が不自由になった父でしたが、その後、私が結婚をして3ケ月後にまた脳梗塞で倒れ、今度は右半身に回った為に、その後、寝たきりとなりました。 親族からは、アメリカでの私の結婚式に父が出席でき、アメリカ旅行が出来たのが何よりの親孝行だったと言われたのでした。 そう、父は、不自由な足を引きずりつつも私と一緒に教会のバージンロードを歩いてくれたのでした。

父は、15年間寝たきりの生活を過ごし、天国に旅立ちました。 父は、2度の脳梗塞の後に、2度の心筋梗塞になり、何度も病院を出たり入ったり、何回か救急車で搬送されたりの大変な人生でした。 その間、私は、看病疲れの母を助ける為に、アメリカと日本を行き来していました。

私が子供の頃は寝たきりだった母が、元気になり、15年間も父の看病をしてくれたのでした。 父が、何度も病院へ運ばれ、妹から泣きながらアメリカへ危篤の電話を何度かもらい、その度に私は、泣きはらした目で空港へ行き、「父が危ないんです。 日本行の飛行機に乗せて下さい」と。 今思うと凄い体験をして来たんだな~と。 もうすっかり忘れていました。

父が寝たきりになって、7、8年目頃のこと、心筋梗塞になった時に、主治医の先生から、「あと2、3ケ月の命かもしれないし、もしかしたら、2、3週間かもしれません。 私共も何とも言えない状態ですので、覚悟されて下さい」と言われたこともありました。

寝たきりで、自分では思うように動くことも出来ず、声を失っていたのでしゃべることも出来なかった父でしたが、頭だけはとてもしっかりしていた父でした。 ですので、尚更大変だったことと思います。

そんな父が、その後また7、8年生き延びたのです。 これは、父が常にポジティブシンキングの人だったからでした。 母や、私だったら、きっと人生に失望し気が萎え、ベッドの上だけで父のように長い人生は生きられないでしょう。

母、私、妹は、父が元気な間に、それはそれは沢山の愛を、離れてはいてもいつも愛されていると感じられる日々をもらっていました。 ですので、母も父の看病は、とても大変でしたが、ずっと頑張ることが出来たのでした。 父が大好きだった私は、仕事の合間に時間を作ってはアメリカ~日本を行き来し、1日でも父の役に立ちたいと15年間日本へ通っていたのでした。

余談ですが、父が何度も入院していた間に、父よりも病状が軽かった方でしたのに、先に天国に旅発たれた方々がいらっしゃいました。 ほとんどの方々は、入院中に家族が見舞いに来れない環境の人たちでした。

母は、父が入院中は、朝~夕食を食べさせるまで、毎日、病院に通い、父の側に付いていました。 父は動けないし、声が出ない為に会話ができないので、父が何か必要な場合は、母が父の代わりに看護師さんたちに連絡をしていたのでした。

家族が頻繁に病院にお見舞いに来る人達は、皆さん、元気になられて退院されていました。
家族の為に、早く元気にならなければ!と思うからでしょう。 その反対に、家族の見舞いのない方々は生きる気力を失っていたのでしょうね。

病院通いは大変でしたが、父が自宅にいる時がさらに大変でした。 下の世話から全て家族で面倒を見ないといけないからです。 それも父からの大きな愛を常に感じられていたので家族で父の看病が出来たのでした。 そして父はいつも明るく、大きなオーラを持っていました。

父は、こんな状態なのにどうして生きなければいけないのかしら? 父のこの世の使命とは?とつくづく考えさせられました。 父は、元気な時には、家族の為に、人様の為にといつも自分よりも周りの人の為にと生きて来た人でした。 それが父が倒れてからというものの、父の兄弟、姉妹、親戚、それはそれは沢山の方々が、昔、父に大変お世話になったからと、私たち家族を心から支えて下さったのでした。

そう、父は倒れていなければ、ずっとずっと人の為にと生きたことでしょう。 でも倒れたことに寄り、人から受け取る人生に変わったのでした。  後年、ディーサービスの施設が出来、父もそこへ通えるようになった時に、父の回りにいるお年寄りの方は、集まると、嫁や息子や家族の愚痴ばかり言っていたとのこと。(父は、動けなくてもしゃべれなくても頭がしかりしていたので、人の話は良く聞けていたのです)

でも車椅子に座って、動くことも出来ず、話すことも出来ない父を見て、回りの皆さんは、少なくても自分は幸せだと感じてくれていたのではないかしら?と。 父は、皆さんに生きる力を与えていたのではと思っています。 そんな父でしたが、何故だかディーサービスでは人気者だったそうです。

さて最初に私がお勉強をしたのが、リフレクソロジ―です。 寝たきりの父の為に何ができるかしら?と。 足の裏マッサージだったら、ベッドの上でも出来るので、父の体も少しは楽になるのではと思ったのでした。 そして次にお勉強したのが霊気でした。 霊気だったらアメリカからでも父に遠隔ヒーリングが出来るし、霊気をお勉強すると良いマッサージができるからと聞いたので。

こうして考えてみると、父の為に何が出来るかしら?というところから、セラピストの世界に入って来た様です。 そして母の環境が変わると人は変わる! 父のポジティブシンキングだと自分の生命をも大きく変えられるということを教えてもらいました。

父が他界した後、主治医の先生にご挨拶に伺ったら、先生と看護師さんから「こちらのほうこそ、ありがとうございました。 お父様は、医学では考えられない。 心臓の下の方は壊死していたのですが、ご自分なりに生きる道を見つけられたのでしょう。 私たちこそ、貴重な体験をさせていただきました」と。 そう、7、8年前にあと2、3ケ月。 もしかしたら、2、3週間と医師から宣言された父でしたが、家族の為に生きなければという大きな想いがあったからこそ、医学では考えられない奇跡を起こしてくれたのでした。

母に、そして今は天国にいる父、祖母に感謝します。 父を支えて下さった主治医の方々、看護師さん、その他多くの方々、皆さんのおかげで私は、今、私は、セラピストをして人生を歩んでいます。
[PR]

by erilovesedona | 2015-07-20 15:02
line

気がづくと海外生活30年以上の私が感じる、海外から見る日本、日本人へのささやかなつぶやきをセドナからお届けします。


by erilovesedona
line